昭和45年11月08日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
うろたえねば成らない様な事が例えば起こって参りましても、その時にうろたえんで済むだけの信心がなされるという事は、どう言う様な事だろうかと。これはまあ結論を先に申しますと、どんな中にあっても有り難いという心があればおかげになるという事だとこう思います。ね、これはうろたえんとか、平静心とかとどんな場合でも平静心でおれるという事。実はそのどんな場合でも平静心でおれるという事が有り難い、とう事だと思うです。ね、それまでの信心の稽古をしておかねばならん。
勿論、信心の稽古させて頂いて、何を体験させて頂いておるか、神さまの大慈大悲という事を今日頂いたけどね、大慈と言うのは、慈しむですかね、大悲というのは大きな悲しみとこう、大慈大悲。それを私は意味はどういうことか分からないです。これは確か仏教の言葉だと思うのですけれどね。言わばお道の信心で言う、私がいつも申します、どのような事の中にあっても、神さまの大愛の中にあることだという事。大愛、神様の大きな愛情の中にある事だと。
言うなら神さまの氏子可愛いの一念、もう神様のお慈しみの中にあるのだという事。そう言う事が分からせて頂くというのが神の悲願であろうとこう思います。大慈大悲という、そういうふうに私は感じました。神さまのやむにやまれん慈しみの心、その心の中に暑い事もあれば寒い事もあるのだと。大愛の中にあるのだと、という事が私は、日々の信心の稽古、又は体験からそれをそうだと実感させて貰えれる程しの信心を身に着けて行かなければならん。そういう信心を身に着けて行くという事なのだ。
わが子の病気でも可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞと、言う事を聞かぬ時にままよと思うて、放っておくような気になる。果たして、自分の可愛い子供がいざという時に、果たして、うろたえんでよいという親があるはずがない。ですから、いかにここの信心の言うならば厳しいというか、信心を身につけておかなければ、どういう場合んでも有り難いというような心は起きてはこない。
その有り難いという心が、うろたえんで済む事になる。四十七節前に「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と。四十六節から続いて一番四十六最後んところがここのページに出てきておる。有り難いのぞという。今日は四十八節から四十七節。ここんところだけを、この一面だけを頂くんです。ね、いうならこの五十二ページのところを全部今日は御理解に頂いたんです。
してみると例えば幹三郎の病気、そして入院と。明日、月曜当たりがま手術になれば手術になるらしいです。そういう時に当たって、例えばこの四十八節を頂くと。四十七節を頂く。それで最後の四十六節の最後んところの有り難いのぞというようなところが、この五十二ページに出て頂いておる。そこで私が四十八節の結論を有り難いのぞという事。有難いと言うこと。
これは幹三郎の場合、おかげを頂くように出来ておるような感じがした。今日は。何故かと言うと、この四十八節の確かに結論を先に申しますならと言うて、申しましたようにうろたえんで済むという事が出来るはずがない、て、人間ですから。だから、そこを超越してですよ、超越してうろたえんで済むという心を頂いておるのじゃないか。このように私が有り難いからと思うんです。
夕べなんか、夜中に眼がさめて眼がさめた途端に例えば心配事なんかがあると、夜中にふっと眼がさめて、又その事が心配になって起き上がって、御祈念でもするいう訳ですがね。もう夕べ夜中に眼がさめた時が、もうさめたなりが有り難いのです。私は昨日は。有り難い有り難いでだから、結局はどういう事になるかと言うと全ての事がお礼を申し上げる事ばっかりだったんです。夜中に。
ね、同時に四十七節「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」と。今度の幹三郎の場合なんか、例えば病院との関係なんかのことを思うてみるとです。もうその神さまが病院へ連れておいでられたという感じでしたですねぇ。もう只々、祈る、祈る、祈ってやまん。只その事だけであった。私共が親子三人で御本部参拝させて頂くのも、そういう下心、これは、私の親心として。
ね、どういう事になっても、親子三人が最後に金光さまに御挨拶にでらせて頂いて、金光さまにお礼を申しあげさせて頂いたり、お願いさせて頂いたり、できるとう事は有り難い。もうそこには、祈れ薬れとおっしゃるこの祈れという事が、まあ、ある意味で十全に出来とったような感じがする。修学旅行、そして身体検査、それからこういう病人を旅行には連れて行かれないという、そこから、ね。
時を同じゅうして、私共夫婦が御本部参拝しなければならないという事になっておった。古川の霊祭に参りますから。そこへ幹三郎の丁度修学旅行だ。ね、それで本人にも申させて頂いてこんな訳だがと言うて、僕はもう旅行なんかどうでもいい。御本部参拝が出来るなら、僕はそれがほうがかえってその有難いと意味のことをいう。そんならと言うて、急に親子三人でお参りする事になったんです。ね、
そしてその日は、福岡で秋永先生達何人で、ま、ある意味での計画がしてあった。私共御本部から帰って博多までの汽車ですから、博多で降りたらそれからそれこそ親子三人水入らずで幹三郎さんが元気であるならば、どこか福岡の周辺でも親子三人でなんて言うですかね、あの、ま、遊びにでも行かれるような所があるなら、と言うておって下さった。ところが幹三郎が、いや僕はもう帰った方がいいとこう言う。
そんならと言うて、そのままこちらへ帰らせて頂いた。帰らせて頂いたら、いわゆる小倉から電話がかかってきとった。富永先生であった。もう否応なしであった。もう、祈って祈って祈り抜かせて頂いて、というところから、ね、富永先生が今から四時半のお勤めを終わったら、四時半からそちらの方へ参りますからと、もう有無を言わせずの事であった。はーと、こちらがもういいですよ。ともあーとも言えない。
いわゆる間髪を入れられない事態になっておった。そして、親子三人連れで、野口さんも一緒にでしたが、おい出て頂いた。ね、もう診察されましたのも、もうほんとに簡単な事でした。もう、すぐ直感されたらしい。これは普通の病気ではないぞ。大変な病気だぞという風にされた。もうそれこそ、あちらの奥さんがみえられてから、もう病院万端のこと、主治医になって頂く先生方に対して、もう何から何までのもう手順というものが、そこに祈りがあって初めて薬れになっておると。
もう言うなら、この四十七節のところを完璧におかげ頂いとるという感じなのである。してみると、四十七節、四十八節、今日この五十二ページのところの全部ををこう頂いてです、ね、これはおかげを受けるなという事になる。けれども問題はその私のなら心の中にあるその有り難いというものが、ね、又いつなん時消えるとも分からん。一番初めの日に入院しましてから、すぐ家内がお医者さんに言われておる事が、とにかく手術をするという事になると全身麻酔をしなければならない。
いわゆるもう、仮死状態になる訳ですねぇ。ですから、その親ごさんの承諾がなかなければならないという事であった。だから、その為には何日間か、もうそれこそ完璧を期しての体の検査がずうっと、頭の先から足のつま先まで、ちょっとした故障でもあってはなりませんから、その検査を致しますと、おそらく手術は月曜位になるだろうという事であった。いわゆるその月曜が明日にひかえさせて頂くという事になる。
皆さんのこうした勢信心と申しますか、ね、もう今までにかってない異常なまでの信心がこんなにしておかげ頂き、ね、一心乃眞を捧げての願いになろうという今月の焦点をそのままにそこに信心を表していかれておられる姿。そういう言わば、大きな御祈念というものがあっての事だから、私の心にこのような、まあ言うならばゆとりとも言うか、まあ、ゆとりというか、何と言うかもうなにもかもひっくるめて。
只夜中に眼が覚めてどうしてこんなに有り難いか分からん有り難さにそのくれておられるという事は何と有り難い事だろうかと、私は思わせて頂いて、今朝の御教話を頂かせて頂こうと思うたら、四十八節でその四十八節は、いつも頂きます様々な角度から頂く四十八節をです。この結論はうろたえんで済むとゆう事のもうひとつ奥のものは、有り難いのぞというここんところ、それが答えであった。
なるほど、有り難いのであればうろたえんで済むどころか、むしろその事自体にお礼が申し上げれるんだなと。そして、頂く事が大慈大悲という事。大きな慈しみ、大きな悲しみ、これは大きな悲しみという事は、私はここでは、ね、そういうおかげを受けてくれよという神の願い、神の悲願という事を申しますね。私はそうゆう事だと思う。大悲願、神さまの大悲願なんだ。神の悲願が、そのようにして達成されていく、成就していくという事。大愛の中に。
ですから、それをなるほど、神の大愛だなと、信じさせて頂けるもの。それは日頃、信心の稽古をさせて頂いて、神さまの言うなら、一分一厘の間違いのない、お働きの中にある事だという実感。私と神さま、そして皆さんというようにです、又、病院に行っておる幹三郎と言うてもいいでしょう。又、その御用に行っておる、家内と言うてもいいでしょう。それがひとつの、一貫したその、神さまの素晴らしい働きの中に、お互いの動きというものがあるのだと。
昨日、私は裏におりましたら神さまにお知らせを頂いたのが、小さい、まなんちゅうの、あんな器見たこともないけれど、このくらいばっかりの陶器の器なんです。蓋がしてある。そのね、両方にこうつまみがついているんですよ、こうやって。それを私、中にたとえば梅干しなら梅干しが入っている。その梅干しを私が欲しいと思うた。思うてふっと、こうつばもうとこれを蓋を開けようと思うたら。
向こうにおった人も一緒にふっと、つまんで二人で一緒に蓋を開けたというところを頂いた。丁度前に、茂さんと高橋さんが昨日終日、御用しておられましたが「今、こういうようなお知らせを頂いた。こういう素晴らしいタイミング、こんな素晴らしいタイミングはない。自分がこの中のものをたとえば頂こうとする為には開けなきゃならない。両方につまみがついておる。私も開けようと思うて。ポッと握った瞬間、前の方におった人が一緒に握ってこうやって、蓋を。
それで、そのまま、私は御結界に着かせて頂いたら、高芝さんの長女に道子さんというのが久留米におります。もうそれこそ、一年振り位でしょうか。参って来とります。そしたら、向こうの方であの高芝さん達の声がしよりますもん。綾部さんとお参りして来て、ははあ、あんまり無信心になっとるから、親がたまにゃ参らにゃいかんぞと言うて、一緒に参って来たなあと私は思いよった。
そしたら高芝さん達が入って来たら、アラとお互い言いよるとですよね。それで私は道子さんに申しました。ね、一日のうちに二十四時間という時間があるが、二十四時間のその何分間のところにです、ね、あんたは久留米からお父さんは日田から、ここでピシャッとお広前で会えれるという素晴らしいタイミング、そういう間違いのない神さまの働きの中にね、今日あんたはお参りが出来たんぞと言うたら。
もうあの人が涙どん流す人じゃないけれども、涙ぽろぽろ流してから本当にそういう、これから又、少し参って来ますと言うて連れの人と一緒に。それが先生連れのこの人がもとは小郡教会の青年会で非常にもとは活躍しておったのが最近は信心をやめてしまった。たまたまそんな話からお参りさせて貰おうと言う事になったち言うんですよ。と言う様にですね、今私が頂いた裏からここまで出てくる間に頂いた。
その素晴らしいタイミングの事をね、話させて頂いたんですけれども、そういう例えば呼吸が合うというかねぇ。そういう例えば素晴らしいタイミングの中に日々があるという事の私は実感と言うか体験と言うか、そういうおかげの中にあっての事だから、私が夕べ夜中に眼がさめて、途端に目が覚めてふっと、不安が横ぎるといったようなものでなくて、目がさめた途端にゃもう。
有り難がとうして有り難がとうしてというて布団の上に起き上がって、お礼のひとつも申し上げなければならない程しに有り難いと思う事は、どうした事だろうかと思う位自分で。まあ人間で言うなら、親子の情と言や、まあ一番深いと思われるそのなら子供が、言うならば。昨日今日までは、もうそれは無邪気な事ですよねぇ。そのあんなに元気なのですから。もう先日などは内田さんが家内の代わりに。
家内がむつやの御祝儀に呼ばれとりましたから、行っておりました。で内田さんが一日行っておられたら「僕はもうひもじか」ち言うげなけん、それからお寿司を買いに行ったりなんか ほいでもう運動せんからいかんと言うて、もうてんでもうお部屋で逆立ちしてから運動しよるそうですもん。下はコンクリートじゃけん、もう下にはあれするめち言うちからと言う様にですねぇ、もうそれこそ純真爛漫ですよ。
何の不安もないような毎日を過ごさせて頂いておかげを受けておる。何かにの事はひとつも心にかかってないといったやうな感じ。けれども、これをなら第三者側からみると、私共の方から見ると、まあ大変な事だなと、大変な事を控えての事なんだ。本人はそれをまあ、知ってか知らんか知らんけれどもおかげを頂いておる。そういう時にです、ちょっと夜中に眼がさめて、ふっとその事が不安になる。
ああいやいやとこう頭ふち打って、金光さま唱えたら、又安心になったというのではなくてね、目がさめた途端に有り難いのだからね、私は。これはもう、本当なんですよ。ですから、私はおかげを受けるなと、こう思うんです。それは、神さまから頂く事はいろいろ、それは刻々な事を頂きますけれども だから、信心してやれ、おかげになるとか、ね、祈れ薬れにすればおかげも早いがとこういうこと。
というそのおかげになるおかげになると。なら但しこちらの方が狂うてくればね、こちらがその時にうろたえあわてる様な事になったらね、是は分からない事。けれどもま現在の状態がですずうっと、こう持ち続けられていく事の為にお互いの信心がです、ね、先日から頂きます、おかげは和賀心にありという、今月今日で頼めいおかげは和賀心にあると言うておる事、しておる事成しておる事がです、ね。
そのまま一心の真を捧げての在り方という事になる時に、そこには嬉しいとか、有り難いとかという信心生活、ね。例えて申しますと、先日の泰子の言葉を借りるとです、ね、お家で御用させて頂いておっても、ここで御用させて頂いておっても、ね、これが幹三郎ちゃんの事の為の修行だと思うたら、もう何をしても、何をさせて頂いても有り難い。昨日なんかは、まあ一日じたばたしたけれど。
本当にあの幼稚園に勤めさせて頂いておる時のきつさと思うたら、もうまあだまあだ、まあだまあだあの幼稚園の時分のきつさはこん位のこつじゃなかったと言うとります。してみると、まあだ、御用の足らんとじゃろうと思うて、一生懸命ならして頂く事が有り難いと言うて、夕べお届けしとります。しかも、それが幹三郎の事の為の修行だと思うたら、もうそれが有り難いというようにです。
そういう間違いのない自分の動き、一日中の働きがです。そういう有り難いものになって。いわゆる和賀心というものは、願って頂くものではなくて、そういう信心生活の中から与えられるものだと私が体験していけれる。まあ皆さん見よってください皆さんもそういうおかげを頂いて下さるところにです、ね、言わば、私の心の中に有り難いというものが、どういう事に直面致しましても。
それを持続出来る、持ち続けていけることがでけるだろうという事になるのです。だから、油断も隙も出来んというのではなくて、もう楽しゆうして有り難うして、ここのところを乱す事は出来んというのが、私の信心。これは、私の信心、私だけの事じゃない。信心とは、そんなものだと。信心生活とは。半分は、神さまの心に添う生き方。半分は、自分勝手な生き方といったようなものではなくてです、ね。
四、六時中がそういうところに信心の焦点を置いてのおかげになってくる。ですがそこは人間の事ですから、いつどのやうに乱れたり、いつどういう風に自分の心がそれとは反対の事になっていくやらは分かりませんけれど、まあ今日今朝のところではです、しかもこの五十二ページを頂いて、これは隅から隅まで頂いて、有難いのぞ、祈れくすれにすれば、わが子が病気でもかわいいかわいいと思うてと。
ここんところをずっと頂かせて頂いて、これは幹三郎はおかげ受けるなと。これは体だけの事ではない。又、健康のおかげを受けるという事ではない。その事を通して、私ども、私をはじめ、たとえば皆さんの信心がです、ね、何か一段確信に満ちた信心に進んでいかれる事を思うたら、やっぱりこれは有り難い事だなあ。なるほど、大慈大悲の中にあるのだなという事を実感せずにおられません。
どうぞ。